g-lad xx

NEWS

【追悼】恐れ知らずのアライだったシネイド・オコナー

2023年07月28日

 1990年に発売した「Nothing Compares 2 U(愛の哀しみ)」が米国や英国のチャートで1位となったシネイド・オコナーが56歳で亡くなりました。彼女はバイセクシュアルであることをカムアウトしていました。家族は「非常に悲しい出来事」「家族や友人はショックを受けている」としています。死因は明らかにされていません。

 
 アイルランドのレオ・バラッカー首相は、「世界中で愛されていたし、その才能はたぐいまれなものだった」「アイルランドは、ここ数十年で最も偉大で才能ある作曲家、作詞家、演奏家の一人であり、唯一無二の才能を持ち、聴衆と並外れたつながりを持ち、その誰もが愛と温かさを向けていた、そういう人物を比較的若くして失った」との追悼コメントを寄せました。

 音楽界でも、フィオナ・アップル、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、マッシヴ・アタック、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガン、ガーベッジ、ベス・オートン、アイス-T、ブライアン・アダムス、メリッサ・エスリッジ、R.E.M.のマイケル・スタイプ、ダイアン・ウォーレンなど多くのアーティストが追悼コメントを寄せています。なかでも「メディアも、音楽業界も、シネイド・オコナーが生きていて、助けが必要だった時に、誰も助ける勇気がなかった」というモリッシーのコメントは痛切でした。
 
 シネイド・マリー・バーナデット・オコナーは1966年12月、ダブリン郡グレナギャリーで生まれました。不遇な子ども時代を過ごし、10代のとき、ダブリンのアン・グリアナン訓練センターに入れられました。かつて、性的に無分別だとされた若い女性を収容する「マグダレーン・ランドリーズ」の施設でした。職員のシスターがギターを買い与え、音楽の教師をつけたことが、彼女がミュージシャンになるきっかけでした。
 1987年に最初のアルバム『ザ・ライオン・アンド・ザ・コブラ』を発売。当時のレコード会社の重役から、もっと女性らしい服装をするように言われた彼女は、その言葉への返答として頭を剃り、それが結果的に彼女を象徴するヘアとなりました。アルバムは英国と米国でトップ40に入り、グラミー賞で最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞にノミネートされました。1990年のセカンド・アルバム『蒼い囁き』には、プリンスの「Nothing Compares 2 U」のカバーが収録され、「別世界のような声とバスカット、パンクなエネルギーを持ち、怒りと大きな瞳の無邪気さに溢れた若きアイルランドのスター」として賞賛され、世界各国のチャートで1位を獲得しました。1991年には『ローリング・ストーン』誌のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ブリット・アワードで国際女性ソロアーティスト賞を受賞しました。
 1992年、米NBCの人気番組「サタデー・ナイト・ライブ」に出演した際、カトリック教会での児童性的虐待への抗議として、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世の写真を破り、ボブ・マーリーの「WAR」をアカペラで歌った後、カメラに向かって「本当の敵と戦いなさい」と述べました。シネイドはNBCから永久追放され、全米で抗議を引き起こし、突然の失脚を余儀なくされました。2021年の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューでシネイドは「自分のやったことは後悔していない。あれは素晴らしかった」と語っています。現在ではカトリック教会での児童性的虐待事件が広く認知されるようになっています。『VOGUE』誌は、「彼女は先駆者であり、若い女性アーティストが社会的に議論が必要なことへの認知度を上げる真価を示した」と評しています。
 その後の30年間、彼女は音楽をリリースし続け、多彩なアーティストとコラボしてきました。2005年のアルバム『Collaborations』には、マッシヴ・アタック、ピーター・ガブリエル、U2、モービーなどが参加しています。
 2021年、音楽業界から引退することを発表、その理由としてBBCの「Women's Hour」でのインタビューで、自分にとって辛いことについて話すよう求められ、不当な扱いを受けたと感じたことを明かしています。
 2022年1月、息子のシェーンを自死で亡くすという悲劇に見舞われました。シネイド自身、メンタルヘルスの不調に苦しみ、精神科病院への入退院を数年間繰り返していたそうです。最後となったツイート群の中で彼女は「(息子は)私の人生の愛であり、魂のともしびであり、ひとつの魂を分けた存在だった」と語っていました。
 
 シネイドは1988年のサッチャー首相が悪名高き「同性愛促進禁止法」を発布した後、ゲイであることをカムアウトしたばかりのアンディ・ベルなどと一緒にプライドに出演しました。エイズ禍のさなかの1990年には、「ACT UP」へのチャリティとなるアルバム『Red Hot + Blue』に参加し、ゲイのコール・ポーターが作曲した「You Do Something to Me」を歌いました。Transgender Equality Network Irelandによると、彼女は若いトランスジェンダーの子のために洋服を寄付していたそうです。
 一貫してLGBTQを支援してきたシネイドですが、自身のセクシュアリティの表明については揺れがあり、2000年にレズビアン雑誌『Curve』のインタビューで自身をダイクだと語りましたが、翌年「レズビアンというのは言い過ぎだった」としています。2005年の『Entertainment Weekly』誌では、自分自身の「3/4は異性愛者で1/4はゲイ」だと語っています。
 別のインタビューで彼女は、10代の終わり頃、ロンドンに引っ越したとき、「Hippodrome」のクラブに行くことを忘れなかった、それがクィアコミュニティと初めてつながった時だったと回想しています。
 Pink Newsは彼女を「恐れ知らずのアライだった」と称えています。
 


参考記事:
アイルランドの歌手シネイド・オコナーさんが死去、56歳(BBC)
https://www.bbc.com/japanese/66321606
シネイド・オコナーが56歳で死去、多くのアーティストが追悼(Billboard JAPAN)
https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/128127
悲報。シネイド・オコナーが亡くなる。享年56歳。ミュージシャンも次々に追悼。(rockin'on)
https://rockinon.com/blog/nakamura/206887
【訃報】シネイド・オコナーが56歳で死去──「私はポップスターではない。私は時々マイクに向かって叫ぶ、悩める魂にすぎない」(VOGUE)
https://www.vogue.co.jp/article/sinead-connor-obituary
All the ways queer icon Sinéad O’Connor proved she was a fearless LGBTQ+ ally(Pink News)
https://www.thepinknews.com/2023/07/27/sinead-oconnor-lgbtq-ally-irish-singer-dead/

INDEX

SCHEDULE

    記事はありません。