ギトンの秘密部屋だぞぉ

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昧爽の迷宮へ(6) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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東洋文庫』内 「モリソン書庫」

 

 朝のうちに、ママの部屋をあとにした。ぼくは今日は非番だが、ママは今夜も徹夜営業になるから、よく寝ておかないとしんどい。ぼくが睡眠の邪魔をするわけにはいかなかった。

 地下鉄で千石(せんごく)へ向かった。きょうは学校のゼミもないし、『東洋文庫』で、じっくり資料調べができそうだ。閲覧室に入って、マイクロフィルムを出してもらう。朝鮮李朝暗行御史が王に提出した報告書。関心があるのは「邪教」、とくに天主教(カトリック)の浸透と弾圧を述べた部分だ。草書で書かれているので、一字ごとに草書字引の模範と見比べて読みとらなくてはならない。 

 しかし、昼過ぎには、フィルムを返して外に出てしまった。胸がいっぱいになって、読みつづけるのが辛(つら)くなったのだ。散歩でもして、頭を冷やしたいと思った。報告書は、「教難」の生々しい実情を述べた部分に差しかかっていた。
 『文庫』を出て、『六義園
(りくぎえん)』の角から本郷通りをまっすぐ南へ歩いて行った。きのうより気温が低いが、よく晴れている。人通りは少ない。

【注】『東洋文庫』:旧三菱財閥第3代当主岩崎久彌が1924年に設立した図書館・研究所。漢籍40%,洋書30%等からなる約100万冊を所蔵。世界5大東洋学図書館の一つ。東京都文京区所在。ホームページ⇒:公益財団法人 東洋文庫
【注】「暗行御史(アメンオサ)」:朝鮮王朝で地方官の行政を秘密裏に監察して王に報告する国王直属の官吏。命ぜられた地域へ変装して潜入し、実情を内偵した。厳しい任務だったが、多くの優れた高官が、昇進の過程で経歴している。
【注】「教難」:キリスト教、とくにカトリックに対する弾圧。朝鮮王朝におけるカトリックの弾圧は、信者全員を、棄教した者まで処刑するなど、きわめて苛酷であったことが知られている。

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六義園(東京都文京区)    

 『六義園』の前を通ると、人がぞろぞろ入っていくのが見えた。まだ紅葉が残っているのだろう。しかし、ぼくは『六義園』には入りたくなかった。園内には、池も日本庭園も散策路もあるが、あまりにも手入れがよく、きれいに整いすぎているのだ。ここの樹々は、生い茂っているのではなく、適切に整形されて陳列されている。ぼくは、そういう風景を見ると悲しくなってしまう。動物園の檻(おり)に入れられた猛獣ならば、アフリカの原野には帰れないとしても、檻を破って脱走することはできるかもしれない。でも、樹々は動けないのだ。人間の美感を満足させるために、好きなだけ剪定され、飽きれば伐り倒されてしまう。

 不忍(しのばず)通りの交差を過ぎると、両側のビルが低くなって、道路は本郷に向かって上り坂になる。道路の両側に、古い寺刹の土塀が並んでいる。ひとつの寺の山門が眼を惹いた。見慣れない様式だ。扁額がないので、寺の名前もわからない。仁王もいない。
 かわりに、門の中に空間があって、鼻の短い奇妙な象に腰掛けた等身大の普賢菩薩が置いてあった。菩薩も象も、張り子に絵の具で、稚拙な目鼻が描かれてあった。菩薩の真白い裸体が、みょうに艶
(なまめ)かしかった。顔が誰かに似ていると思ったが、誰なのか思い出せなかった。

【注】「普賢(ふげん)菩薩」:「普(あまね)く賢い者」を意味する菩薩〔菩薩とは、如来となるため衆生救済の行(ぎょう)を修行中の仏〕。白象の上に坐す形で表される。

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 門を抜けると、鬱蒼とした樹林がどこまでも続くばかりだった。本堂がどこにあるのかもわからない。路は、参道にしては、か細く、くねくねと曲り、何度も分岐した。どちらへ曲ればよいのかわからなかったが、適当に曲った。こんな広大な寺院が、こんな場所にあるとは思わなかった。いままで気づかないでいたのが、ふしぎだった。しかし、いくら歩きつづけても、樹(き)が密に立てこんだ森林が続くばかりだった。だんだん不安になり、戻ろうと思って振り返ると、後ろは遠くのほうがぼやっとして、来た路が消えているように思われた。底のない奈落を見たような恐ろしさにとらえられて、足が竦(すく)んでしまった。とにかく前に進んで行けば、どこかに出るだろう。進んでいくほかはないと思った。

 いきなり、ぽっかりと森が開
(ひら)けて、広い池のほとりに出た。

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