ギトンの秘密部屋だぞぉ

創作小説/日記/過去記事はクラシック音楽

はじめに光があった Im Anfang war das Licht...

朝になって、天末線(スカイライン)の紅(あか)みも消えて日がさしてくると、山の端()のある一点が光っているのに気づく。あれは何だろう? 毎朝同じところに見える微小な光点が、ふしぎでたまらなくなる。行ってみたいが、どうやったら行けるかわからない。大人に聞いても、「あんな場所に行く道はないよ」と言ったきり、大人は関心を失ってしまう。それでも、光は、いつでも、その場所に目を凝(こ)らせば見えているから、正体がわからないまま心に焼きついてしまう。。。

「原風景」とは、そんなものだ、と落合恵子さんが、ある絵本を紹介しながら書いていた。

心が折れた時、いままで信じて進んでいた路が、すべて閉ざされてしまったように感じた時、ぼくはいつも、知らず知らずに「原風景」に立ち帰っていた。あるときには、それは列車の窓から望むアルプスの冠雪した稜線だった。ぼくは、アルプスが心を癒してくれるのだと思って、岩峰をめざすようになったが、それはじつは、山がぼくを呼んだのではなかった。ぼくの中にある「原風景」が、雪嶺にみずからを投映して見せていただけなのかもしれない。

 

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旅先のヘルスセンターのようなところで、気がついたらぼくはオトコを追いかけていました。あれはたしか 14歳、「厨二病」の年頃ですね。両親と行った旅行先で、ぼくだけ別行動をしていたら、自分より少し年上の識らない男の子のあとを、少し距離をおいて、見失わないように歩いていたのです。最初に出会ったのは浴場の中だったかもしれない。脱衣場で、その子の裸体から目が離せなくなって、自分もパンツをはかないようにして、全裸のままで、じっと見ていたのは覚えているのですが…

それがゲイの「思春期」のはじまりだったのかというと、‥はじまりはもっと前にありました。小学校の、たしか5年生の時。。。 でもそれは、説明が必要な・“ありえない”体験なので、別の機会に書きたいと思います。

ヘルスセンターでのできごと以来、ぼくは時たま、同年代か少し年上の男の子を追いかけているのに気づくことがありました。さすがに、ヘルスセンターの時のように、見失うまで追いかけたりはしませんでしたが、一度は、相手が振り向いて近づいてきて、「おまえ、生意気なんだよ!」と言われて顎を殴られたこともありました。それでもぼくは、殴られたことを喜びました。相手と接点ができたことで、うれしくなったのです。

尾行のようなことは、だんだんしなくなりましたが、街角で、電車の中で、じっと眼が離せなくなるのは、やめようがありません。相手も見返してくるのがわかって、眼が合う。そこで眼をそらしたり、たがいに避けあったりするのがふつうですが、たまに、眼が合ったとたんに、しぜんと口元がほころんでしまう、相手もそうなる、至福の瞬間が訪れることも、ないではありません。

「原風景」で言うと、ぼくはいったい誰を求めているかわからないのに、一心に誰かを求め続けているのです。誰を追いかけているとも識らぬままに、あてどない彷徨の日々がつづきました。それでも、自分が引きよせられる「タイプ」があることは、だんだんにわかってきました。自分の「タイプ」は、イケメンとは少しちがうということも。。。

 

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ウナギ買ってきましたぜ。

九州の湖に住んでるウナギ。海には出ないので、1年じゅういつでもいる。そう、1年じゅういつでもウナギは発情期。ぼくのウナギも、きみのウナギも ←

ああ、もうこんな時間! 早く温めなくちゃ。。。

 

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